文章を書こうとおもうときは、いつも言葉のほうが勝手に降ってくる。霧雨のように音をたてず体に当たるので、傘をささずに天を仰ぐような感じで、PCに向かって文字を打つ。10分か15分くらいで書く。それを一度読み返す。そのときに、ルーペでのぞきこむような感じで、言葉を拡大してゆく。たとえば「風が吹いていて、海面が光っていた」と書いていたら、それはどんな風に?と、もう一度。太陽はどんな角度だったのか、月明かりだったのか。そこには人がいたのか、いないのか。そよ風なのか、北風で海面はぐちゃちゃに荒れていたのか。そんな風に記憶を呼び戻しにいき、言葉を探しにいく。以前本を作ったとき、編集者の人に「言葉を尽くすんです」と言われて以来、全然まだまだだが、前よりも気をつけるようになった。乱暴にかかない。適当にかかない。それは話すときもおなじで、自分の思っていること、感じていることのディティールをなるべく伝えるために、言葉をさがす。訓練が必要で、まだまだできていないけれど。
霧雨が降ってこないときは、全然書けなくなる。書けないことに苦しみや痛みはないが、「どうしたの?」と人から言われると、失礼だが、わずらわしい。どうして雨が降らないの? と聞かれても、答えられないから。昔からずっと気分にムラがある性格だし、こじらせている部分もたくさんあって、そういう自分を空は、空だけはなにも言わず、いつも見守ってくれている感じがする。
『SAUCE』に立っているといろんな人が来ては去っていく。扉の開けかた、閉めかた、言葉の使いかた、力の入りかた、意識して観察しようとしなくても、背景の方がノックをせずにはいってくるような感覚。素直でいればいい。そのほうがうんと楽なんだと、自分自身にも照らし合わせて、毎日学んでいる。かくせばみえるし、つくろっては浮かびあがってくる。大人になればなるほどに。それらはやがてブーメランのようにはねかえって、じぶんにあたる。痛みや傷になるくらいなら、最初から解放したほうがいいのだ。
『SAUCE』でお弁当を手渡すとき、ときどき「いただきます」と言う人がいる。おもわず「召し上がれ」と言いたくなってしまう、つくっていないけれど。レストランでご飯を食べるとき、必ず両手を合わせて「いただきます」という男性を何人か知っている。幼い頃からの躾(しつけ)や身についた習慣なのだろう。さっと手を合わせては、さっともどす。早く食べたいのか、くせなのかはよくわかないが、その仕草だけが一瞬高速になるので、なんだかおもしろい。愛らしい所作だなと感じる。
飲食の仕事は、経営を続ける難しさが随所にあるようにおもうが、同時に奥深いものを感じている。衣食住の「衣」の世界に長く身を置いてきた自分にとっては、発想の転換が必要で、おどろくことばかり。アパレルは製造・販売のサイクルをはやくすることを良しとしないが、飲食はちがう。いいもの、おいしいものは鮮度がセットで、おいしいぶんだけ日持ちがしない。だから、なるべくその日に売り切ることが大事。「衣」は外を着飾るたのしみがあるけれど、「食」は内側を豊かにする。お客様は、ほとんどの人がショーケースの前で「おいしそう、目移りしちゃう〜」と口にする。この感じ、アパレルにはない反応だった。鏡に映るじぶんを見て「にあってないな、ふとったかも」とおもうようなマイナスな部分はなくて、「おいしそう、あれもこれも食べてみたい!」というプラスなベクトルが働く、オートマティックに。おいしいものを、ただ、おいしそうに眺めている。その姿は自然体でありのままで、なんともいい風景だ。
さて、きょうもこれからレンバイへ。湘南は昨日から風が吹き荒れている。我が家の窓の外に見える海面は、白波がたってぐちゃぐちゃ。こんな日は売れるのだろうか。と書きつつ、どんな日でも「売れますように」とおもいながら、自転車のペダルを漕いで出勤するわたし。