年末年始、姉と甥っ子が叔母の住むLAに旅していた。そのお土産をもらって喜んでいたのも束の間、テレビでは山火事を伝えるニュースが連日流れている。叔母のメールによると、叔母の住むウェスト・ロスアンゼルスも空気が悪く、外出を控えているとのことだった。火元となったパシフィック・パリセイは、叔母が80年代に働いていた場所でもあるそう。アメリカに渡って10年くらい経った頃だから、きっともう、美容師として働いていた頃だろう。夢を抱いて海を渡ったアメリカで、青春を過ごした街が見るも無惨な状態になってしまった叔母の悲しみを思うと、姪っ子としてもとても辛い。美容室のお客さまも被害に遭われているとのことで、どうかこれ以上被害が拡大しないことを願うばかりだ。
春に中学生になる娘が「アメリカいってみたい」と言っていたのは年末の頃だったか。ハワイもいいけれど、そうだね、一度はアメリカに連れていってあげたいと思っていた。サンフランシスコの急勾配の街並みはもちろん、サンタモニカで美容師として働く叔母、叔母が住む家も見せてあげたい、サンタモニカピアや野球のスタジアムなど、かつてのわたしが感銘を受けたように。地震や火事や災害で街ごと無くなってしまう、という経験を目の当たりにしたことはないけれど、いつでもある訳ではないのだなと、命と同じなんだなと、今回のニュースを見てつくづく思った。
娘を妊娠した2012年初頭、夫の後押しもあって、母と二人旅をした。ロスアンゼルスと、サンフランシスコ。母は「膝が痛いからやめておくわ」とあまり乗り気ではなかったけれど、「大丈夫、大丈夫」と勝手にチケットなど手配して決行。今から10年以上前なので、写真や記憶で当時を振り返ると、見た目も体力も、お互いの若さに驚く。そして改めて思った、行ってよかった、と。叔母と母は姉妹水いらずで終始楽しそうにしていたし、途中母とわたしで中抜けしてサンフランシスコに旅したときも、母はケーブルカーのステップ乗車(手すりにつかまって立ったまま乗ること)をとても気に入って、大喜びしていた。昼も夜も何度も乗っては降りてを繰り返していたので、その様子を見た黒人の運転手さんが、「ママ、この鐘も鳴らしていいよ!」と運転席から母に声をかけてくれた。母はあまり言葉の壁を感じない様子で、いろいろな人にニコニコと対応していた。公園では、インド人の赤ちゃんを抱っこしたりもしていた。そういう母の姿は日本に居るときと何も変わらず、おおらかで人を逸らさない母らしいなと、誇らしい気持ちになった。帰国後、比較的すぐにわたしの妊娠がわかった。もしあのタイミングで旅に出なければ、簡単には母を連れてはいけなかっただろう。いつか、と思っていたらすぐに過ぎてしまうし、あっという間に年をとる。なくなってしまったり、消えてしまうこともあるのだ。命も、街も、風景も。会いたい人にはすぐに、見たい景色があれはすぐにいこうと、そんなことをリマインドさせられる、連日のニュース。一刻も早く、風がやみ、山火事が落ち着きますように。