いろんな人がいて、いろんなことをいう人がいて、いろんなことをおもう人がいる。いつもおもうのは、その自由を奪わない大人でいたいということ。決めつけない。受け入れる。そのことを教えてくれたのは、年上の友人や先輩たちだった。家族だから色々なことがあったけれど、父や母、兄や姉、叔父、叔母もそう。若いころはよくわかっていなかったけれど、彼らが与えてくれた愛と自由の中をスイスイと泳げたから、今の自分がいる。当たり前みたいな顔をしてここにいるが、わたしの思想をつくったのは、わたしではない。
この土地に引っ越してきて、19年。当時20代だったわたしはたくさんの大人に出会った。いろんなことがわからなかったし、わからないことがわからなかったし、わからないときは「おしえて」と質問をした。たくさんの失敗や遠回り、お金のかかること、効率の悪いことも経験した。「こういうことをやってみたい」、そんなふうに何度も大人に相談した。「危ないからやめた方がいいよ」と言ってしまえば簡単なことも、「やってみたら?」と言ってくれる人ばかりだった。決断を奪わないことは、自由を奪わないことなのだ。子育てをしていても、仕事をしていても、ふっと思うことがある。安全な道を選んで、舗装された道を選んで、レールを敷いて、それは誰のためなのだろうか。怖がっているのは、ねえ、誰なの。本当に人のため? わたしのためではなく? いつの失敗を後悔しているの? どんなことが恥ずかしかった? その傷に向き合った? 許せた? 褒めてあげられた? わたしはわたしに、いつでも問う。今、格好つけていないかな、と。
心を耕していきたい、いくつになっても。季節はめぐるのだ。木々は芽吹き、花は咲くし、紅葉し、落葉する。そうやって、少しづつ幹を太くして、枝を伸ばしていく。木の年輪(ねんりん)のように、歳を重ねた分だけ太くして、雨風を耐えしのいだり、時には誰かに日影をつくれたら。けれど、どんなに老木になってもずっと、素直な心と純粋さだけは大切にもっていたい。幹の、真ん中に。