レッドボーンというバンドをしって、狂ったように同じ二曲を聞いている。こういうとき、自分の中に眠っている狂気の沙汰をしる。我ながらこわいけれど、そのくらいに「好き」という想いの情熱がファイヤーしてしまう。<カム・アンド・ゲット・ユア・ラブ>は甘いラブソング。大人になって知ったことは、どんなラブソングも恋人だけではなく、親やこどもへ置き換えて聞くことができるということだ。<ワン・モア・タイム>は家族をうたったもので、どっちもイントロからサビに向かっていく感じとか大好き。ネイティブアメリカンをルーツに持つバンドで、YouTubeでみるとかなり攻めたコスチュームだし変わった感じなのだけど、そういう、クセのあるはみ出し者がだいすきなわたし。昨日はこの二曲をずーーーーーーーーっとリピートしながら父のいる施設へ。敬老のお祝いみたいなイベントがあり、参加させてもらった。米寿のお祝いや、最年長(103歳!)の方のお祝いなど、とにかくみんなでおめでたいをお祝いする会。しらないおじいさん、しらないおばあさん、ハンディのあるひと、その家族、施設の人、おおぜいの人を俯瞰してみていたらなんだか込み上げてくるものがあり、感動してちょっと泣いてしまった。
「長生きしたくない」とか「はやくお迎えが来てほしい」とか「元気で長生きしたい」とか聞く一方で、誰かの死に対して「若かったのにね」とか、人は命にたいしていろんなことをいう。そういう、ほんとうたくさんの乱暴な言葉たちを踏みつけて投げ捨てたい気持ちになった。本心では耳障りだとおもっていたのに耳にしてきた言葉たちが、頭の中でいくつも再生されて、わたしの心はとても不愉快。雑音のように録音されてきた言葉のカセットテープ、全て消去したい。
一本の木がそこにあって、つぼみがうまれる。つぼみのままで茶色く枯れてしまうもの、若々しいつぼみのまま土に落ちてしまうもの、大輪を咲かせるもの、小ぶりに咲くもの、咲きそうで咲かない初々しいつぼみのままのもの。そんなふうに、この世の生(せい)はすべて、ふたつと同じ命はないのだ。誰に頼まれたわけでもなく生まれた命にたいして、元気ですかとか元気じゃなさそうですねとか、ボケたくだけはないとか、現役で立派だとか、テメェは黙ってろと、がたがたうるせぇんだよと腹の底からおもう。命とは、人がとやかくいうものではない。みんな、好きに生きている。その自由を平等に持っているのが命なのだ。またじぶんも、たとえ生き様が惨めでも哀れでも、生き切ることが命なのだと、そんな風に思えない日もひっくるめて、それが命の誇りなんだと、そんなことを考えさせられた。「生きる」ということのすべてを言葉ではなく、生き様でさらけ出して見せてくれる父は格好いい。父はわたしの誇り。