そんな名前のコーヒー屋が、以前葉山大道のちかくにあった。ずいぶん前に数回いったことがあったと、ふと思い出した今朝。窓の外は曇り、昨日の晴れはどこかへいったのか。次の約束などせず、さっさといなくなってしまった。
三浦にある好きなパン屋、<充麦>。その横にあった牛乳屋さんの跡地に、元スタッフの方が珈琲屋をはじめると充麦の店主からうかがっていて、昨日やっと足を運べた。とても感じのいい女性がひとりで切り盛りされていた。店内は混んでいて、道路を眺められるカウンター席に腰をかけた。窓の外は国道を行き交う車、トラクター、その先には畑、その上には青い空がおおきくひろがる。すこし右に視線をうつすと、充麦にパンを買いにきた人、買って帰る人が、ときおり視界にはいっては消える。これまではパンを買って帰るだけだった場所、その横にお店ができると、みつめてきた風景が変わる。滞在時間が変わるから、動く風景の一人だった自分は、立ち止まってそれを眺める側になる。お店がいいなとおもうのは、腰掛けられて、陶器で呑めて、冬ならば暖かな、夏ならば涼しい空間があることだ。ひと休みできる。大きくなくてもいいけれど、枝ぶりのいい一本の木がそこにあって、その木の下に人が集う、みたいに。
それで思い出したのは、夫との結婚式のこと。候補のひとつに、ハワイでビーチウェディングというのがあった。ハレの日が苦手だったし、金銭的にも雰囲気的にもカジュアルでいいじゃんと、20代だったわたしは安易に言ったけれど、夫は「ちいさくてもいいから、屋根がある場所で挙げたい」といった。結果的に、結婚式を挙げられる世界でいちばんちいさいという教会で、家族だけで式を挙げた。正解だったなとおもうのは、やはりそこには「場所」があるからで、「景色」と「風景」という言葉の隔たりのようなもの、当時の夫がわたしに伝えたかったことを、今なら理解ができる。
三浦からの帰路の途中、<BIRDS CREATION>のジョージくんのところへ寄った。サーフボードを扱う彼の工房は、湘南国際村の、山の中腹くらいにひっそりとある。はじめて訪れる人は、本当にあっているのかと、心細くなるようなほそい道をぐんぐんのぼった先にある。「ここがいちばんあったかいから」と、陽の当たる場所にイスを出してくれた。コーヒーを半分こして、日向ぼっこしながら話している途中、カラスが一羽、ドラム缶の上に溜まった水を呑みにきた。たぬきのような動物は、下り坂をのんびりと歩いて通り過ぎた。風が吹いて、とおくの、ちかくの、樹々たちが仲良く横に揺れる。普段、海をみながらミシンの仕事しているので、その美しさにたびたび手を止めてぼーっとしてしまうけど、ここも同じくらいにすごい。圧倒的な美しさがある。
日々、どんな景色を見つめているか、そこで手を動かしているか。どんなに高いものでも安いものでも、形あるものでも消えてなくなるものでも、その人が見つめている風景が作品に投影されると、わたしはいつも信じている。見つめたものが心に響いて、指先に伝わって、形をつくる。どんな場所に、二本足でたっているのか。作品を通じて、あるいはその人の場所を通じて、作り手の感性に共感したり、共鳴して生きていたい。わたしたちの感性は、他の誰の手にも渡せない。奪えない。手にとって見ることもできない。だからこそ、そこに真価がある。感じる心を、いつも、いつでも持っていられる人でいたい。
気がついたら雲は流れて陽がさしはじめ、床に光を広げている。窓の外の海面が光ってまぶしい。空は気まぐれに明るくなったり曇ったりして、いつもおなじじゃないのがいい。自然は誰の期待にもそぐわず、いつだってありのまま。