夫と娘を送り出したあと、自宅でミシンをふんでいる間はわりと大きな音で音楽を流している。合間に家事をし、手を抜いた昼食をつくると、スツールをキッチンに持っていき、そこで食べる。お行儀が悪いと夫が嫌うスタイルだけれど、夕方のキッチンでも、ビールを呑んだりつまんだりするのが大好きなのだ。夫が不在のひとりの時間は、それをのびのびと、堂々とする。でも、ほんとうの理由はそうじゃない。ダイニングテーブルの上には布や様々な裁縫道具を広げているので、それを片付けるのが面倒くさいというだけ。言い訳はいつでも安易で、人は容易に嘘を並べる。
中学生になった娘が学校から帰って来ると、「お腹すいたー!」という。陽が長い季節は日没まで仕事をするので、一旦手を止めて、簡単な夕飯をつくってしまうことがおおい。娘はそれを喜んで食べる。布が散乱した、散らかった部屋にも慣れた様子で。そう、だってうちはワンルームなのだ。
その間も、ずっと音楽を流している。娘は日によって「音楽聴くね」と言ってイヤフォンをする日もあれば、テレビでYouTubeやネットフリックスを見たそうなときは「ママがイヤフォンするね」と言う日もある。そして、そのどちらでもない日は、わたしが流している音楽が部屋に流れているので、聴くともなしに聴いている娘がいる。先日、ビル・エヴァンス&シェリー・マンのバージョンの『ダニー・ボーイ』が流れていたとき、「この曲いいね。ピアノがいいね」と娘がいった。そういう感性のキャッチボールがわたしは一番好きで、心が躍り、高揚するのがわかる。うれしくなって、「ビルエヴァンスだけのダニー・ボーイもあるから、次そっちもかけるね!」と鼻息荒く流してみたら、「こっちはジャズって感じだね、ニモ(娘の名前)はさっきの方が好きかな」とあっさり言った。そういうところも、そういうことをはっきり言ってくる娘も、わたしにとっては心地が良い。わたしとあなたの好きなものは決して全部が一緒ではない。好きと、そうでもないという境界線を相手に言葉にして伝えることができる、そのことの方がよっぽど尊い。
娘は生まれたときから、その佇まいや存在にどこか達観しているものを感じていた。うんちやおしっこ、よだれを垂らしてハイハイをしているのになぜだろうと、わたしはいつも思っていた。歳を重ねていくうちに、「すごいね。生まれたときから60歳って感じがする」というわたしに「ママはずっと16歳なんでしょ」と言って笑う。バカリズムが脚本をかいた『ブラッシュアップライフ』というドラマで、人生を何度もくりかえている主人公のことを「タイムリーパー」と呼んでいた。そのドラマをわたしたち家族はたのしくみていた。近頃、ことあるごとに「ニモってタイムリーパーなんでしょ」とわたしがいうと、娘はたいてい、ふっとちいさく鼻から息を吐いて「ママ、その話好きだよねえ」という。あんまりしつこくいうわたしに、先日夫がとつぜん「あんまり言ったら可哀想だよ!」と叱った。それをきいた娘は「え?全然そんなことないけど」と言った。やっぱり60歳なんだ、わたしは思う。タイムリーパーは、自分がタイムリーパーであることを、タイムリーパー同士にしか打ち明けられない、とドラマで言っていたもん。わたしはまだまだ、きっと人生1回目。だから娘はそれを打ち明けられない。16歳のわたしは、割と本気でそうしんじている。