子育てに関して、人間関係において、「この人はきっとこう」みたいな勝手な思い込み、一方的な期待みたいなものを抱いてはいないか。ここのところ、度々考える。「人は見たいものを見ているからね」、以前友人が何気なく言った言葉が、ずっと忘れられない。娘を妊娠しているとき、街を歩くと「街中に妊婦がいる!」と思っていた。今、街中から妊婦が消えた。わたしがそこにフォーカスしていないからだ。
言葉に語弊があるけれど、娘には一切の期待を持たずにいたい。それでも、会話の中に、暮らしの中に、「わあ、うれしいなあ」なんておもうことはあって、高揚と冷静、情熱と平穏のはざまで、たびたび心の水面が揺れる。娘とはなしていて特にうれしくなるのは音楽の話。先日、娘が流していたスピーカーから音楽が聞こえてきて「この曲いいね」と言ったら「マカロニえんぴつの『星がおよぐ』だよ、この部分がとくにいいんだよ」と教えてくれた。「星が泳ぐって言葉を思いつくだけでもうロマンティックだし、センスいいね」とうれしくなって口にだす。今朝、寝ぼけ眼のまま本棚の前で歯磨きをしていた娘が、「『贈り物の本』ってどんな内容なの?」と聞いてきた。答え終わると「『それはただの偶然』は?」と続いた。答え終えて、なんで聞いてきたのかと聞くと「ママの本って、タイトルが素敵だからどんな内容なのかなっておもって」と言った。うれしくて抱きしめて背負い投げしたいくらいだった。こうして、すぐに高揚するわたしの心は、なんだかいつでもいそがしい。こんな曲もあるよ、こんな本もあるよと、あれこれ言いたくなってしまうけれど、最近はなんとなく言わない。だって、そういうのがきっと期待なのかもしれない。「これが好きに違いないわ!」と勝手に思い込んでしまうと、恋愛がこじれていくみたいに、わたし色に染めたい、もっともっとと、モンスターになってしまいそう。
たくさん失敗して、まわり道をして、やっと今ここにいて、この先もきっと不安定に生きていくだろうわたし。そんなわたしがまさかの母に。監督は誰ですか、危なっかしいキャスティング。これまでの失敗を元に、すこしくらいならアドバイスできることもあるのかもしれないけれど、やっぱりないかもしれない。わたしの失敗は彼女の失敗ではないし、なんの参考にもならないのだろうと、最近おもう。先回りして、転ばないようにと石をどけたとしても、娘の未来の跳躍力をわたしは知らない。見届けられないかもしれないのだ、明日死ぬかもしれないんだから。
例えば、「くそー、転んだ、こんなところに石があったのか」と、擦りむいた膝から血が滲んで、絆創膏を貼るようなみじめな痛み。「ジャンプしたらおもったよりも高く飛べたんですけど!」という衝動を突き動かす喜び、そういう気づきを、人は人から奪ってはいけない。おのれ、肝に銘じるべし。手を差し伸べない、見たい角度ばかりからみない、期待をしない。待つ、信頼する。そういう者に、わたしはなりたい。