今日で6月もおしまい。先週はひとに会う用事がおおく、そのうちの二人は20代の頃から『湘南のおねえさん』と慕っているひとだった。久しぶりにあっても変わらずにたのしくて、こっちも変わらいなけれどあっちも変わらなくて、当たり前ではない奇跡をおもう。当時わたしは20代の終わりで、おねえさんたちは40代に突入したくらいだった。今、わたしは48歳。歳を重ねるほどに、距離感のようなものが近くなってきた。積み重ねてきたものもあるし、わたしが歳をとって大人になったこともおおきいのだろう。
先日も、おねえさんの一人で湘南ビーチFMの竹下由起(たけした・ゆき)さんと会っていた。由起さんの運転する車で海沿いをドライブしていたときのこと。じぶんは定期的に、誰にも会いたくなくなるときがあることを話していた。そういう時は言葉も浮かばないからSNSもウェブサイトもチェックしないで、たいていは気まぐれに三浦へ向かい、素潜りして、気ままにごはんを食べたりしていると。あるいは、それと同じくらいに、誰も知り合いに合わないであろう東京の雑踏に身を委ねて歩くことが好きだ。そんな時はよく「どうしているの? 元気?」と人に聞かれるが、元気なはずがない。正直なところ「うざってーな」くらいにおもってしまう。そういう失礼な人間なのだ。人に会うこと、書くこと、エネルギーをつかういろいろなことがわずらわしくなってしまう。そんな自分のことを「わがままなんだろうね」と由起さんにはなすと、「いいじゃん。自分のこと、自分が好きなことがわかっているってことだよ」と言われた。うれしかった。本当のわたしをわかっているのはこの世でわたしだけだけれど、その屈折した輪郭をそっと照らしてくれるような言葉で、「ああ、わたしはこの人のこういうころが好きなんだな」と改めて実感した一言だった。
例えばおなじ頻度でおなじことをする、おなじ場所に通う、みたいなことがとてもではないができない。そんなじぶんは時に苦しくもあるけれど、そういう拗(こじ)らせている自分もまた自分で、今世ではそんな自分を選んで生まれてきたのだろう。人はきっと、誰もが皆そんなウィークポイントを抱えていて、人には見えない痛みがあるはず。それは美しく言えば個性とも言えるが、傷とも、短所とも言えるだろう。名前のない、目にもみえないじぶんのそのような癖を見捨てることはできず、嫌いにもなれない。蓋をせず、例えくさいものであってもやさしく、愛でてあげられたら。そうして、そんな時間をやり過ごしているうちに、またエネルギーがチャージされてゆく。目にはみえない、満たされたなにか。言葉はふたたび霧雨のように降ってくるから、すぐに書くことができる。人のことも、また好きになれる。
由起さんとのドライブの道中で、あまり聴いたことがなかったアース・ウィンド・アンド・ファイヤーの『ブラジリアン・ライム』が流れたので、「これなに?」と聴いたら、「もともとはレコードに収録されいたもので、それがCDになって・・・」みたいな長い説明をしてくれてた。相変わらず音楽にマニアックなおねえさんの、嬉々と語るその横顔は、陽の光が照らされたようにきれいだった。その数日前も、もうひとりのお姉さんと会って、笑って笑って、腹を抱えて涙を流した日のはなしは、また次の機会に。