「最近のこどもは忙しすぎる」という言葉をよく耳にする。テレビでも、身近なところでも。事実、小学校にあがったあたりから塾や習い事に通う子が増えたのは実感としてあった。親は仕事があるのに学童にはいれないとか、習い事は早いうちからさせたほうがいいなど、理由も様々なところ。お財布事情もちがえば教育方針もさまざまなので、よそはよそ、みんなよしである。
娘はいっときピアノを習っていたが、あまり長続きしなかった。最初のうちは心が弾(はじ)けている様子だったが、ほどなくして惰性な雰囲気が発生したのを、わたしは見逃さなかった。「そういう気持ちでいくと、誰も幸せじゃないよ。先生もママもニモ(娘の名前)も」と言った。当時はお給料をもらっていたので、ママの時給がいくらでお月謝はいくら、やる気があるならいいけれど、ないなら無駄だからやめたほうがいい、それを先生にもちゃんと伝えるべきだと言った。娘が小学一年生か二年生の頃のはなし。程なくして、娘のお稽古はゼロになった。学校から帰ってくると、お菓子を食べ、ゴロゴロし、YouTubeをみたり、漫画を読んだり。夕方になると「お散歩にいこうかな」などと言う日は近所をぷらぷらして帰ってくる。春に中学校に上がったが、茶華道部がある日以外、娘は相変わらずにそんな放課後が続いていた。
この夏、本人の希望で家庭教師のような習い事がはじまった。算数が数学になり、わからないところが増えたようで、やばいとおもった様子だった。先生は幼馴染の男の子のおねえちゃん。先生が来るのではなく、娘が先生の家に行くスタイルの家庭教師。わたしもよく遊びにいく、正確にはよく呑みにいく馴染みの家。大学生のおねえさんは優秀で、娘以外に、弟と弟の幼馴染、合計3名を指導している。お支払いは先生にダイレクトでPayPay、日程は先生と娘がラインで決めている。ちょっと都合が悪いときは互いにリスケもできる。なんという現代なのか、ありがたいの極みである。
娘はあまり流されないタイプで、それがいいときもたくさんあるけれど、人の話がまったく耳にはいっていない様子もある。視界にもはいっていない感じで、時々尊敬すら覚える。あるとき、「まわりのおともだちは忙しいのに、こんなに暇なじぶんをどうおもっているのだろう」とおもったことがあった。それを問うと娘は、自分の時間が大切なのだとわたしに言った。自分の時間と、プライベートの時間の両方が必要なのだ、と。その違いはなんなのと聞くと、プライベートとは、学校以外で友人と遊んだりする、そういう時間のことだそう。それにも疲れる時があるから、自分の時間は別で必要なの、とのことだった。今朝も「学校からかえってきて、家でハイキュー(最近ハマっているアニメ)みて、お菓子食べたりする時間がだいすき」だと言っていた。
大人になるとけっこう忙しい。そのことを大人になって知ったわたしは、「暇はこどもの特権だから存分に味わったらいいよ」なんて偉そうな顔していうのだけれど、さてここで問題です。わたくしは忙しいのでしょうか。縫製の仕事は波もあるし、納品が済めば時間は増え、「あれ、今わたしって暇?」なんてときは正直なところ、あるあるである。わたし自身も娘に対抗するほど暇な学生時代を過ごしたので、なんとなく、この時間には慣れている。いいのかわるいのか。強みなのか、弱みなのか。しかし、どんな弱みもじぶんで強みにするのが人生の術なので、今日もわたしはやるんです。そしておもうのです。この時間をどう変えていくのか。暇から生まれる物語、暇から生まれるものづくり。「余暇(よか)」と辞書で調べると「余ったひまな時間。仕事の合間などの自由に使える時間」とあった。さてさて、今日はどんなふうに。