仕事をしていたら近所のHさんから電話があった。プリンターが壊れたと半ベソで連絡があったのは、先週のこと。その30分後くらいにパソコンを持って駆け込んできたHさんのプリントアウト問題は無事に解決。「どこかお昼でもいく?」というので、うちでホットサンドでもつくるから一緒に食べようといった。バウルーといって、直火で焼ける器具があり、我が家はそれをよく使う。いつでもホットサンドを焼けるように、食パンは10枚切りを買うことがおおい。鎌倉ベーコンの切り落としと、冷凍庫にはグリンピース、冷蔵庫にはよつば乳業のチーズがあったので、それらを入れて簡単に作ったものを出すと「おいしい〜、チーズがいい仕事してる〜」とHさんが食レポしてくれて、笑った。コーヒーとチャイはどっちがいいか聞くと、「選べるの?チャイ!」と元気がいい。Hさんは最近ほんとうに元気で、見ていてうれしい。こう書くとわたしがあれこれサポートしているようだけれど、そんなことはないのだ。事実、先日の富山行きのフライトが早朝すぎて、万が一タクシーがつかまらなかった場合、Hさんが朝の5時に送迎に来てくれることになっていた。そんな感じで近所の仲間同士、助け合っていきている。
友達、仲間、家族、どんな関係を築いていけたらいちばん幸せなのだろう。ずっとそばにいられなくても、心を寄せる、信頼を寄せていられたらと、個人的にはいつもおもっている。都内で育ち、現在はお隣の神奈川県に住んでいるわたしは親元を離れるのも遅かったし、一人暮らしもしたことがない。そんなわたしは、家族で一人だけ東京を離れたので、この距離ですら、もっと近ければなあとおもうことはある。でも、ほんとうにたくさんの家族との思い出があるから、この先もなんとなく、大丈夫。年々、色々なことを忘れていく父と母ではあるけれど、娘のわたしは決して忘れない。親からもらった言葉を、まるで昨日交わしたかのように、心の中であたためている。「人にしてもらったことを返していきなさい。たとえおなじ人にじゃなくてもいいのよ、巡っていくから」と母はよくいっていたから、それは心の指針のようにしている。父はよく「仕事にはるんるんでいけ」といっていた。だから、たとえそんな気持ちになれない日でも、鏡の前で「るんるん」と声に出してみたりして、可愛くお化粧をして、オシャレをして、じぶんをよいしょって持ち上げる。
結婚を機に実家を出て、湘南に引っ越してきたばかりの2004年の夏、わたしは27歳だった。夏から秋に向かっていくシーズンで、陽が短くなるだけでもう寂しくて、夜に呑みにいこうとおもったら街にはネオンがない。心の底から嫌な風景だとおもった。「もう無理! 東京にかえる!」と夫にいった、引っ越して一ヶ月くらいだったのではないか。「もう少しだけ頑張ろう」と言われたが、いや、絶対に無理ですとおもった。実家に電話をかけると父が出て「寂しいから東京にかえりたい」といったら、我が娘よくぞ言ったと言わんばかりに「おう! すぐ帰ってこい!田舎はたいくつだろう!」と、弾んだ声でいった。母に電話をかわってもらうと「みもちゃん、結婚生活はちいさなことを乗り越えられないと、おおきなことも乗り越えられない。でも、ちいさなことを乗り越えたら、きっとおおきなことも乗り越えられるとママはおもうわ」と言われて、ショックで卒倒しそうになった。いつもやさしい母だから、「あらあら、そうなのね」と言ってくれるとおもっていたのだ。あの日、母に言われて考えを少し改めることにした。この暮らしはネオンもないし飲み屋もないしくらいしさみしいし実家も遠いし友達もいないしつらくてつらくて心から嫌だとおもったが、それでもがんばって、その年の秋と冬を泣きながら過ごした。そうやって、この土地に馴染んでいった。父には悪いが、今の暮らしがあるのは母のおかげかもしれない。あと夫。
言葉の力ってほんとうにすごい。こうしてずっと、ずーっと光を放っている。わたしはきっとすべてを忘れていくし、あと何十年かしたら、いやもしかしたら今日でも明日でも、不可抗力で死ぬときは死んでいく。でも言葉は残るし、残すことができるのだ。だったら、できるだけやさしい言葉をつかいたい。あたたかい言葉を贈りたい。笑える言葉を口にしたい。泣ける言葉があってもいい、だってロマンティックな人生を送りたいから。本みたいに、たまに思い出して手にとってもらえたら。読み返してまた、そっと閉じて本棚にしまってもらえたら。誰かにとってそんな人生をおくれたら、言葉を残せたら、わたしはもう、ほかにはなにもいらない。