高田馬場で生まれて、大学を出た後も、社会人になって結婚するまで、ずっと実家で暮らしていた。兄も、二人の姉もそう。まわりの友人は大半が都内出身の子で、数人だけ神奈川県の子がいるくらいだったから、ほとんどみんな似たり寄ったりだった。結婚を機に湘南に引っ越してきて、地方からやってきた友人たちに、はじめてたくさん出会った。彼ら彼女らの、親元を離れるはやさにはとても驚いたし、今想像してみても、やっぱりうっすらと驚いてしまう。けれど、よく考えてみればわたしの母もそうなのだ。母は鹿児島の西側の海のそばで育った。中学校からは鹿児島市内で、姉(今はLAにいる私の叔母)と共に、知り合いの家に下宿をしていたらしい。短大の進学で東京に出てきて卒業後すぐに父と結婚をしたので、実家にいたのなんてほんとうに短い。一方の父は下町で生まれて、実家を出ることなく結婚をし、結婚を機に実家の隣の区に新居を構えた。都内で生まれた人あるあるで、あまり移動をしない。父は家業を継いだので転勤などもなかったし、疎開で一瞬群馬県に行った以外、東京を離れることはない人生。このままきっと、都民のままで生涯の幕を閉じるだろう。
桜の時期になると、いつも実家の、小鳥の家族を想う。新宿区から一番近い有名な花見スポットといえば、なんといっても九段下の千鳥ヶ淵と、靖国神社。地下鉄東西線をつかえば数分で着くし、父とよくドライブをしながら桜並木を眺めたりもした。父は靖国神社の裏手にある男子校に通っていて、中学高校と六年間を男子だけで過ごした土地で、その思い入れは特別なものがある様子だった。
10年くらい前のことだったとおもう。地方から出てきた、お花見が大好きな友人が千鳥ヶ淵を知らないというので、びっくりして連れていくと、彼女はとても気に入ってくれ、以来毎年のように足を運んでいる様子だった。「みもちゃんも一緒に行こうよ」と何度か、いや何度も誘ってくれたけれど、あまり一緒に行く気がしなかった。家族との思い出があり過ぎて、なんだかつらくなるからだった。「花見っていいよなあ、桜の下で怒っているやついないじゃない。みんな笑ってたのしそう」と父が言ったのも、靖国神社で家族でビールを呑んでいるときだった。父は休日に家族サービスをするようなタイプのお父さんではなかったから、家族の思い出といえば、父が好きな花見と、父が好むお店での外食ばかり。授業参観や卒業式などきたことがなかったし、息子とキャッチボール、なんて一度もみたことがなかった。父は運動もきらいだった。小学校の運動会に至っては、母が用意した布のマットや可愛いカゴなどを広げると、ワインをボトル持ち込んだ父は、そこで宴会をはじめた。今思い返してもピクニックスタイルで可愛かったが、悪目立ちしたのだろう。翌年の運動会のお知らせに「酒類の持ち込みは固く禁じます」と書かれ、以来父は運動会にも興味を無くし、一切こなくなった。そういう父だった。
千鳥ヶ淵や靖国神社での花見は、ここ何年もひとりでふらっと足を運んでいた。父と同じくらいの年の人が親子で歩いているのを見ると、ついいいなあとおもってしまったし、若々しい家族を見れば「あんなことあったな」とおもってしまう。一人で歩いていたら、あまりにもいろんな気持ちが込み上げてきて、ビールを呑みながポロポロと泣いてしまった。桜の下で怒っているやつはいなくても、泣いているやつはいるんだねと父に教えたいけれど、もう一緒には歩けない。もう戻らないのだ。そのことを、去年くらいから少しづつ受け入れられるようになってきた。そんな痛みにも変化が訪れてきたんだよね、誘ってくれていたのにずっと一緒にいかなくてごめんねと、花見好きのMちゃんに告白したのは一昨日のこと。
歳をとると涙もろくなると聞くけれど、当たり前といえば当たり前な話。だって、思い出が積み重なっていくのだもの。たのしかったな、わらったな、わかかったな、元気だったな、その全部が胸にせまってくる。季節、場所、匂い、ふとした瞬間に。
たのしい時間はかけがえのない宝物に違いはない。けれど、その分だけ、その宝箱を開けるのが辛い時期があると、父や母の介護を通じで知った。とはいえ両親の命はまだまだ続いていて、そのことにはありがとうの気持ち以外ない。いつか二人の命の灯火が消えたら、次はどんなに寂しい気持ちが襲ってくるのだろうと想うけれど、そんなの想像しても、まだわからないこと。だから、会える時に会っておこう。そして、言葉にして残しておく。この時間をまたいつか振り返って、わたしはきっと、メソメソ泣いたりするのだろう。大人になると、宝物がどんどんどんどん、増えていく。桜の時期はすきだけど、すきが積み重なりすぎて少しつらい。幸せな痛みなのかもしれないけれど、時々まだちょっと、胸がいたむ。