カーテンを開けたら魔法が解けたかのように波が消えていた。昨日の景色は夢だったのかな、なんておもうことがここに住んでいると度々ある。昨日は朝から午後までずっと波があったが、サイズが大き過ぎたので波を見ながらミシンを踏んで仕事をすすめる。途中に娘が帰宅し、仕事もひと段落したのが16時前。波もだいぶ小さくなって、いささか小さすぎるのではないかともおもったが、気分転換に車に板を積んで由比ヶ浜へ。
秋の空、秋の海、夏よりもうんと好きだった。そのことを忘れるくらいにこの10年以上は子育てや親のことや、じぶん以外を優先させてきたのだろう。そんな意識は全くなかったし、家族に注ぐことのできる時間を、時に気持ちが憂うときはあってもおおむね幸せだともおもっていた。でも、きっとたくさんのやりたいことを後回しにしてきた。最近になって、そんな自分に気がついた。
ママ友がすくないわたしは、シングルの友人、夫婦二人暮らしの友人、男の子の友人の方が圧倒的におおい。それはとても楽しいことで、自分と違う環境の人といると閉鎖的にならない開放感もあるが、時に「いいなあ」と比べていたことも、また事実だった。「自由でいいな」がベースにあった。人を羨む気持ちは思考やメンタルを歪ませて、徐々に自分自身を傷つける。それを何度も繰り返していた。何が変わることもなく、諦めることにも慣れてきていたところ、娘の手が離れはじめた。親のことに変化が出てきたのも、偶然だが同時期だった。漕ぐつもりもなかったヨット、気まぐれな風がセイルをはらませてゆっくり進み始めたような、乗るはずのなかったサーフボードが、たまたま波をとらえて滑り出したように。そんな感じのここ1、2年で、じぶんの暮らしはようやくじぶんを軸にして再び進めるような、そんな感覚がある。犠牲にしていたわけではないけれど、人生をかけて大切にしたいもの、今しかできないことをやるときは、それくらい疲弊する。そこに愛があればなおのこと。
昨日の夕方、海へ出かけるわたしに「もう4時だから、気をつけてね」と娘が言った。海から上がってすぐ、娘に電話をする。「今あがって着替えてるから、心配しないでね」とわたし。ここにくるまで長かったような気もするし、成長は早すぎたような気もする。「さみしい」という感情からなるべく遠ざけてこどもを育てたい、正確には家族という形を育みたいとおもっていた。ぶつかってもいいから。時間がかかったし、その間はたいしてお金も稼げなかったけれど、我が人生に悔いなし。今から、また、ここから。わたしの気持ちを自然とそんなふうに持ち上げてくれた、昨日の秋の空。