令和の小学生は学校からタブレットが配られる。夕方になると、先生から宿題のお知らせや各種インフォメーションがながれてくる。こどもたちはチャット機能でそれに返事をしたり、先生をふくめて簡単な交流もできるようだ。昭和のママには未来をみているようなシステムだが、クイックでイージーで、うらやましくもある。娘によると、今週末は『漢字50問テスト』があるという。チャットでは、多くのこどもたちが母親の協力のもと、連日予想問題を作ってもらい復習に挑んでいるのだそう。娘が、ニヤニヤしながらそれを読み上げてくる。わたしは、台所から両手で大きくバツをつくった。娘もそういうわたしの性格をわかった上で、ふざけてよみあげているのだ。「ママの問題集は漢字がまちがっていそう」と娘、「漢字が書けなくてここまで生きてこれからね。これからはAIが書いてくれるよ」と応戦するわたし。台所のちいさなスピーカーからは、Shazamのアプリが作ってくれたプレイリストが流れている。70年代・80年代のR&Bを中心としたプレイリストで、ときどきブルー・ノマーズやヴルフペックがカットインする。
小学生の頃、「勉強きらい」と母に口にすると「ママもきらいだったわ」といわれた。そこで会話は終了した。できないことは伝えられない、それは母のスタイルだった。わたし自身もそこはおなじ。知らないことは知らないし、そこに興味があれば今からでも学ぼう、知りたいと心が動くが、漢字の学習にたいしてはそのパッションが見当たらない。母は裁縫も得意としなかったが、わたしはミシンが好きで、母のミシンをつかって、ものづくりを覚えた。娘は歴史が好きで、熱心に勉強をしている。その点は夫に似たようで、二人はよく日本史の話をしている。わたしはそこも興味がなく、会話にはいることはない。
昨日は仕事を通じで知りあった30歳くらいの女の子とお茶をする。彼女が今いる、立っている場所での奮闘をきく。仕事にたいして真面目で可愛く、相談に乗るどころか、涙を流してわらってしまった。渦中ではわかないことの方がおおいけれど、とにかく一生懸命日々をこなすこと、それしかない。今のじぶんにできることはなにか、学べることと吸収できることはなにかを常に考えながらやってみたら、と伝える。本人は大変なこともあると思うが、俯瞰して聞いていると大変よくできたコントで、吉本新喜劇みたいだと爆笑する。
すべてのことに言えると思うが、愛、尊敬する気持ち、謙虚さを失うと人は怒り、傲慢になる。あるいはエネルギーを失う。そうなったら、その場を卒業するときだと感じる。逃げだという人もいるが、逃げればいい。くたびれたら、休むしかすべはないのだ。明日死んでしまうかもしれない命。明日失われるかもしれない時間をどう過ごすか、その選択の自由はいつでもじぶんの手の中に、心の中にある。