三連休、夫と娘の髪を切ったり、念入りにお風呂掃除をしたり。お出かけは映画を見にいったくらいで、比較的のんびり。「うちって連休に旅行とかしないよね」と娘に言われておもったが、確かにそのような概念がないみたいだ。お友達はどこかへお出かけがおおめらしい。
ここに書いている日々の文章に出てくる友人・知人が、この文章を読んでいることは極めて少ない気がする。ママ友に関してはSNSをしてない人がおおいし、している人のインスタグラムものぞいてみたがフォローしなかった。だって、投稿が数年前に一件だけだった。そもそも、彼女たちはわたしのウェブサイトすら知らないのではないか。わたしは誰のために書いているのか、それは自分自身の研鑽のため。次に、言葉を娘に残せたらと思って書いている。娘は最近になって、このサイトへのアクセスを知った。インスタのストーリーズからではなく(12歳はまだインスタのアカウントが持てない)、ウェブサイトへダイレクトにアクセスして読んでくれているようだ。昨晩も、キッチンでお皿を洗ったり拭いたりしているときに「ママ、文章更新した?」と聞いてくるので、「うん」というと、後で読んでくれていた様子。じぶんのことが書かれているのを読むのが、うれしいのだと言う。そんな言葉をありがたく思っていると、「こまかいことだけど、ここちがうよ。『教室の前』ではなく、『放送室の前』だよ」とか「『ホワイトにライトブルー』じゃなくて、『ブルーにホワイト』だよ」など、校正・校閲がはいる。冷静と情熱をあわせ持つばぶちゃんなので、言われてすぐに加筆修正をする作家のわたし。
その昔、師匠で美術作家の永井宏(ながい・ひろし)さんに、「褒めあっても伸びないから、互いに仲間の文章を批判しあいなさい」と言われたことがあった。その作業は<痛い、恥ずかしい、気まずい>の極みなのだが、成長するには必要なことだと、やった人にはわかる。当時師匠に言われたことのおおくを、20年くらいの時間をかけてやっと理解できた気がする。実践できているかと言われたらまだまだだけど、ひとつだけ、自慢したいことを達成できたのはついこの間のこと。師匠はいつも、「小手先でものづくりをするな、作るなら100個!」みたいなことをよく言っていた。以来、100という数字は自分のなかで一つの指針であるが、先日お受けした仕事は、なんと500個だった。「マジかー。手作業で500…」と思ったが、予定を立て、狂いなく同じものを完成させることを目標にコツコツおこなったら、予定よりも少し早く仕事を終えて納品ができた。お褒めの言葉もいただけて、ものすごく自信になった。同時に、真面目な性格のじぶんなので、小手先に関してはますます厳しくなったのも、また事実。
「作家」と名乗るのは、名乗ってしまったもの勝ちで自由だけれど、その名に恥じないものを出したい。それは決して見栄ではなく、作品に対する責任。お客様、あるいは仕事であれば発注してくれた人へ感謝と信頼を、作品にのせたい。適当にやっている人やもの、適当をカバーするために素敵なベールをかぶせているものは、この世にたくさんある。おしゃれで素敵にみせるのもテクニックがいるとおもうが、これだけの情報量、光の速さで物量が溢れては流され、去っては次が飛び込んでくる世の中なのだ。何が大切? それは見えないもの。見えない一生懸命さ、そこに注がれた時間が大事。選ぶ方も目を養わなければいけないし、作り手も、上手い下手ではなく、心を尽くせるかどうかになる。縫いものに関しては、ここ最近やっと「タイパンツ作家です、縫製の仕事をしています」と照れることなく言えるようになった。でも、技術にゴールはないので、もっと丁寧に縫えるようになりたい。さて、言葉はどうか。言葉のほうはまだまだで、だからこうして書いている。言葉は心のどこにあるのか、掘り下げて見つけられるのか、誰かに届けられるのか。続けないとみえない世界が、遠くのほうにある気がしてならない。長く立ち止まってしまう日も含めて、それでもあきらめることはできず、こうして今日も言葉を積み重ねている。