先日落語にいった。噺(はなし)の前に雑談のような時間があるのだが、そのときにとても印象的なものがふたつあった。ひとつは学校にいけないこどもたちの話。「学校なんてシルバニアファミリーよりもちいさな世界だから、無理していかなくていい」と彼は言った。「外の世界で、自分が好きだとおもえることが見つかるまで探して、それを伸ばした方がずっといい」と。もう一つは、この間ニュースになった、空港の税関職員がお金を盗んだはなし。容疑者は「スリルを味わいたかった」と供述していたが、「落語家になればいいのに、スリルだらけだから」と言って笑った。聞きにいった落語家は桂宮治(かつら・みやじ)さん。化粧品の営業マンを経て噺家になった経歴の持ち主で、営業マン時代は年収一千万くらいだったのが、落語家を志してからは、月収三万になったような人。そんなふたつのはなしを聴きながら、学校にいけなくなった友人のこどもたちの顔が浮かんだ。一人や二人ではないので、この時代の、今の学校のシステムにフィットしない子は一定数いる気がしてならない。彼がいうように、まさにシルバニアファミリーよりもちいさな世界で、気の合う子、好きなことを見つけるのはとてもむずかしい。つまらない、苦しいと感じてしまう今だけの毎日を、なんとかかんとか適当に曖昧にやり過ごして、どうか自分の道を探して、見つけてほしい。それが見つかるまで。
でも、それは学生だけの話ではないのではないか。わたし自身も会社員時代、45歳を迎える数年前から、ずっと悩んでいた。ありがたい環境ではあったが、これがほんとうに自分のやりたかったことなのか、この先も時間を重ねたい場所はほんとうにここなのかと。流されて生きてきた人生だから、自分で決めるのがとても苦手で、卒業を決めるまでにダラダラしてしまったけれど、やっと人生を選択できた。出発が48歳かい!とツッコミたくなるけれど、それもまた人生で、この先どうなるかなんてまだまだわからない。わからない自分の姿を、ひとりでおもしがったり、おもんぱかったりしている。でも、そんな大人はきっとたくさんいる。落語を聞きにいくと、笑うだけではなくて考えさせること、力がわくことがおおい。情けなさの中にある逞しさみたいなものに触れることができるから、帰り道のわたしは、来る前よりも風が吹き抜けて、かるくなっている。