先週は葉山のワークショップ時代をともに過ごした仲間にたくさんあった一週間。20代の頃からの付き合いなので、もう20年ほど。お互いに歳をとったけれど、ほこらしいのは、皆がずっといい人であること。それをしみじみと実感するウィークだった。
昨日は東京からおぐちゃんが来店。『DAILY』にスエットを買いにきたらしく、一緒にお店へいく。店番で馬詰さんもたっていて、なごやかに過ごす。みんな、師匠の永井宏(ながい・ひろし)さんがつないでくれた。やさしさや誠実さがずっと変わらないことは容易ではないので、その尊さをおもう。「満月で月がきれいだから、階段のぼってみておいで!」と馬詰さんがいうので、おぐちゃんと一緒に屋上にあがる。由比ヶ浜から徒歩でもどってきたおぐちゃんが、「あっちにみえたよ」という方向を二人で見えると、月は見えない。「みえないねえ」、「みえないねえ」と言いあって、下に降りようと振り返ると、そこにはピカピカと光った満月がみえた。「どういう方向感覚してんのよ!」と言うわたしもわたしで、なにも疑わずに西の空を見上げていた。その後店を閉めて、ふたりで歩いでディモンシュにいき、コーヒーと甘いもの。おぐちゃん、テーブルの上の水をよけて、ウェットティッシュもよけて、スマホでお写真。お写真を撮るのがおそいのも変わらない。変わらないってすごい。
この歳になるとじぶんも含めて、年老いてきた親のことに関する話題をあちこちで耳にする。数年前からその渦中にいるわたしは、限られた友人にしか、そのことを話さなかった。隠していた訳ではいが、聞いてたのしい話ではないし、なによりも、身に降りかからないとわからない話だから。それに、親のプライベートでもある。そこを大切にしたかった。そんな中、おぐちゃんにはすこし、LINEで弱音をはいたことがあった。なぜおぐちゃんだったのかはわからない。けれど、東京から湘南に戻る電車の中で、いろいろな変化に気持ちがついていけず、疲弊もしていて、涙がこぼれておぐちゃんに連絡をしたのだった。そのときおぐちゃんは「ことりさんはえらいよ、ちゃんとむきあっていて」と返事をくれた。その言葉がどれだけわたしの胸をうちうれしかったか、おぐちゃんはきっと知らない。わたしたちは言葉を綴ることをワークショップで学んできた仲間。だから、お互いの言葉を信じられるし、届けられる。昨日もお互いの家族のはなしをあれこれして、「歳をとるとは」みたいな話をした。
ディモンシュの壁には数枚のTシャツがかかっていた。ふたりで「あれ、いいよね」とはなしていた一枚があり、その下には説明らしきキャプションがついていた。「あの字がもう読めない」と、お互いの老眼について語る。「月も見えないわたしたちにあの文字は読めない」とウケる。「朝に目がかすむ」とおぐちゃん。「夕方に目がかすむ」とわたし。「夕方もかすむ」とおぐちゃん。「ずっとかすんでんじゃん!」と笑う。似たようなネイビーのスエットを着たおじさんとおばさんは仲良し。目がかすんでいるおじさんとおばさん。コーヒーをすすって、甘いものをつつきあうおじさんとおばさん。気がついたら、あっという間におじいさんとおばあさんになっているのだろう。目がかすむ、耳がとおい、月はどこだといいながら。