16歳でボディーボードをはじめた。きっかけは当時からサーファーだった七つ上の兄(今もずっとショートに乗ってる)が、「みももいく?」と、連れていってくれたから。鹿児島の祖父母の家で遊んでいた夏、確か宮崎まで連れていってくれた。兄が誰かから借りてくれたボディーボードを使って波の上を疾走したあの日から、波乗りの虜になったわたし。途中ヨット部で忙しい時もあったけれど、そこから9ft以上のロングボードもはじめて、のちに8ftへうつり、今は7ftに落ち着いた。
35歳で娘を出産するまでは、結構海に入っていた。当時は週5日都内に通う、外資系のOLだったわたし。派遣先はアメリカの某有名スニーカーカンパニーだった。オフィスは天王洲アイル(品川から徒歩で通っていた)で10時出社だったので、早朝サーフィンからの出勤もしょっちゅう。真冬はグローブにブーツをはいて海に入った。リーマンショックで派遣切りにあい、あっさりリストラされたのが33歳。そこから自然と暮らしが海よりにシフトして、タイパンツを縫ったり、途中鵠沼の平家から今のマンションに引っ越して。
なんとなく、こどもはできない人生かもなーと思っていたが、今の家に引っ越をしたら、娘がお腹に宿った。こどもが生まれて、サーフィンライフは遠くなった。頑張ればいけたと思うが、頑張ることがとにかく苦手だし、体もなんだか、いつもどこかが寒い感じがしていて、気が向かなかったのだ。年に一回入れたらラッキーくらいで、細く長く続けてきたこの10年。仕事も波乗りも、子育て中のキーワードは『細く長く』だった。フルスロットルで働くママを見て、じぶんはサボっている気がした時もたくさんあった。一度だけ、寝ずにものづくりをしている作家のSNSに影響を受けて、夜中に頑張ったら翌日そのまま睡眠がスライドして寝坊。保育園まで遅刻して、一回でやめた。そういう性格なのだ。頑張ることに熱中できることは素晴らしいが、できない人がしがみつくと悲劇をうむ。わたしは後者だった。
『頑張らない』。波乗りこそ、その最たるものだろう。頑張るものじゃない。必死でパドルする人もいるけれど、ふわ〜っと数回のパドルで波に乗る人もたくさんいる。肩の力が抜けていて、スタンスも自由。人にやさしくて、一人できて、ときどき海は厳しくて。そういうスポーツだから、わたしは波乗りを好きになった。
昨日は由比ヶ浜でサーフィンして、夕方は『Brandin』でレコード聴いて、なんかもう、他に何もいらないと思うくらいに幸せだった。今、洋楽にはまっている娘の帰宅を待って、「一緒にレコード聴きにいかない?」と誘ったら、「うーん。学校で疲れちゃったし、ゴロゴロしながら洋楽聴きたいから、ママ一人でいっていいよ。ありがとね」とはっきりと意思表示をした10歳。彼女みたいに、丁寧に言葉のキャッチボールをしたい。自分を待っていたのであろうママのことを、娘はよくわかっているはず。けれど、そこに自分を添わせない。なぜなら疲れているから。そして、今日はレコードよりも、寝転がってYouTubeで洋楽を聴きたいから。わたしが10歳の頃、こんなにもはっきり、意志をスピークアウトできていたのだろうか。もっと気にしていた気がする。周りのこと、周りの人の気持ち、親のこと、おにいちゃんのこと、おねえちゃんのこと、その隙間を縫って、じぶんらしく生きていた気がする。今でもその癖は抜けなくて、それが長所ではあるが、時に短所の顔を出す。ときどき、娘に(自分の思う)良いママを演じすぎてしまう。昨日だって、帰りを待たずに、さっさと車を飛ばせば良かった。でも、しなかった。「ただいま」って嬉しそうな顔に、それっぽい「おかえり」を返してあげたいと、変な犠牲と欲がでる。そういう上っ面を、娘はわかっているのかもしれない。娘には見習うことがおおくて、彼女はわたしのお手本みたいに生きている。娘に限ったことではない。こども、若者、みんな未来からきた素晴らしい人達なのだ。見守ることはあっても、教え諭すことなど、見当たらない。そういうスタンスで、わたしは歳を重ねていきたい。謙遜(けんそん)でも諦めでもない。光がただ、そこに見えるだけ。