週末にあまり遠出をせず、もっというとすぐに出ていける鎌倉駅や逗子駅にも出ない、という休日をおもしろがっている。週末は、夫が朝から家事を張り切る傾向があるので、わたしはコーヒーを淹れたり朝ごはんをつくる。娘は決まって朝寝坊。先に二人で朝食をとっていると、会話で娘が目覚めてくる。午後は近所を散歩して、肉屋や魚屋でおかずを買って、明るいうちから呑む。これ以上の贅沢が見当たらないくらいに、気分がいい。
学生時代、友人たちと数えきれないほどハワイへ行った。ホテルは決まってコンドミニアムで、リビングのソファベッドに寝転がったり、目の届くところにエキストラベッドがあるような、そんなあの頃のような雰囲気がなんだかよくて、このワンルーム暮らしもすっかり気に入っている。当時の楽しかった思い出が今に繋がっているのだから、人生を豊かにしてくれものは自分にとって、やっぱり経験だ。ちょっとアルバイトをすれば6万とか8万とかでツアーでハワイに行けた時代だった。車もないから空港からは相乗りのリムジンバスで、現地ではバスで移動して、みたいな旅だったけれど、時間と体力ならいくらでもあったからすべてを楽しめた。大学時代の思い出はヨットとハワイとバイトしか思い出せないくらい、なにも考えていなかった。あの頃の自分にタイムマシーンに乗って会えるとしたら、「そのままでいいんだよ」と、無言でサムズアップをして立ち去りたい。ワイキキビーチ、サンセット、カタマラン。
昨日は師匠で美術作家の永井宏(ながい・ひろし)さんの命日で、奥様にお花を渡すため、由比ヶ浜の<ナンリーショップ>まで自転車のペダルを漕いだ。近所の花屋で、永井さんが好きだったマーガレットを求めたがなく、「似たお花はこれです」と『マトリカリア』という花を教えてもらった。花を贈るとき、花言葉を調べることがおおい。マトリカリアの花言葉は、『集う喜び、楽しむ心』などがあり、ピッタリだなと思って、決めた。
永井さんが亡くなって、15年が経った。三十三歳だったわたしは四十八歳になり、五十九歳だった師匠は、生きていたら七十四歳だった。人は基本的にきらわれたくない生き物だから、面倒なことには関わりたくない。損をしたくはないし、得にならないことに時間を割かないから、手も口も出さない。静観という名の、無関心は安全。でも、儲かることは敏感で、前のめりで乗っかりたい。そういう人の方が世の中はおおいし、まあ、それが悪いってわけでもない。普通。永井さんは面と向かってダメ出しをしてくる人だったので、もしかしたら嫌われる事もあったのかなとおもうし、「いちど絶交した事がある」、というのも聞いたことがある。わたし自身も、何度となくダメ出しされた。一度だけ頭に血がのぼった事もあるが、あんなに真正面からダメ出ししてくれる人は、人生でも本当にすくない。若かった自分を厳しく律してくれたのは美術作家の永井宏さんと、友人のお父様でもあるカメラマンの北出博基(きたで・ひろき)さんだった。わたしにとって、人生に大きく影響を与えてくれた二人。そして、作品を心から素晴らしいと思っている作家の二人。優しくて、厳しくて、愉快で、愛しかなかった。自分が何かを迷ったときや、落ち込んでいるとき、ものづくりに向き合っているときなど、「あの人ならどう言うかな」と、いつも心に問いかける。部屋には、必ず二人の師匠の作品を飾っていて、目に入るたびに、ふっと思い出す。もっとお礼を伝えたかったし、もっと学びたかった。大人になるにつれて、いつからか、注意をされなくなった。それがどんなに危なっかしいことか、自分を見ても、正直なところをまわりを見ても、歳を重ねるたびに怖さがわかっていく。
いい顔して優しくするなんて、だれだってできるのだ。だからわたしは、めんどうくさくても、あえてむつかしいほうを選ぶ。娘にも日々よく言うことだが、本人の前で言えないことはどこでも言わないと決めて何年にもなる。そこに加えて、嫌われてもいいから、正直な気持ちを本人に言う、と決めたのは最近のこと。物心ついたときから、ただ居るだけでさんざん褒められて、人から好かれて生きてきた。感じよくする、なんて朝飯前に得意だったわたしが、人生の途中で、あるべき大人の姿をしっかりと見せてもらった。その責任のようなものが、胸にあるのだ。そういう順番が、そろそろまわってきたような、そんな気がする。